越すに越されぬ大井川で有名な静岡県島田市に「かに柳」という料理屋がある。その昔、島田市に古い街道の面影が残っていたとき、いまだ仕舞た屋風の店であったときから通いに通った店である。この店の料理総てが美味、店主の包丁の冴えにただならぬものがあり、珠玉のような刺身をじっくり味わい、楽しんだものである。今も「かに柳」は健在に違いないが板前さん(店主)、女将さん、まだご壮健だろうか。
この「かに柳」で秋になると待ちに待った酒が到来する。地元島田市「大村酒造」の「おんな泣かせ」という純米大吟醸である。静岡の酒はおしなべて淡麗辛口である。ときにもの足りないくらいに喉越しがよく、ついつい飲み過ぎてしまう。そんななかで大村酒造の普通酒「若竹鬼ごろし」という酒は当時(今の評価ではない。もう一度評価しなおさなくては)やや野暮ったく重い味わいであった。そのため普段その繊細な料理ゆえに「かに柳」で飲むのは同じ静岡県の「開運」ということになっていたのだ。そして秋から冬にかけてだけ「おんな泣かせ」になる。
「この酒はなかなか手に入らないんだよ」
と何度も聞かされていて、この旨酒のためにその日いちばんの白身の刺身を注文する。その白身の魚が2月になったばかりの御前崎沖で釣り上がった20センチ上のマダイ。
「こんなタイだからね。刺身でうまいとは思わないダラー。それが……」
店主はニコリと笑い、それはそれは美しいお造りが出来上がって目の前にある。そして「おんな泣かせ」の4合瓶。この意外な刺身のうまさに、願ってもない「おんな泣かせ」。我が人生でも忘れられないときであった。
そのマダイは店主自ら釣り上げたもの。釣り師としては物足りぬものであるが、驚くばかりにうまい。「どうしてなんだ」という思いは駿河湾、遠州灘のマダイを味わった方は思い当たるはずだ。どうにも静岡沖のマダイは瀬戸内海、東京湾などと比べると大味だとばかり思っていたら真冬のマダイは天下の美味であるらしい。それがこの小ダイをきっかけに思い知ることとなったのだ。
懐かしいな。もうかれこれ10年以上島田に行っていないし、またそう簡単に行けそうもない。そして忘れかけたときにまた「おんな泣かせ」と出合うことになる。
この「おんな泣かせ」を見つけたのは八王子市甲州街道に面する「am pm」においてである。この店、たぶん昔は酒屋であった模様で外見はコンビニ。でも入るとすごいという典型な目立たぬ名店である。久しぶりに見つけた「おんな泣かせ」は4合瓶で1850円。子だくさんの我が家では高級品であるがこのところ慌ただしく疲労困憊している身にせめてものご褒美である。
魚はホヤの身と広島県倉橋島の「このこ(ナマコの卵巣の塩漬け)」を和えたもの。これで余計に「おんな泣かせ」の辛さが引き立ち、また抑制されていながらフルフルと口中上部に広がる醸造香にしびれてしまう。懐かしいような不思議な気分だが辛さが増して、より「鬼ごろし」となった微妙な変化を感じてしまう。
また行きたいではないか島田、そして「かに柳」。
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑へ
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