酒粕を焼くと子供の頃を思い出してしまうのだ

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 親戚に酒屋(酒蔵)があったために寒い時期になると、酒粕が送られてくる。商家だったので朝ご飯は簡単なものだった。面白いことに、昭和30年代(1960年代始め)に朝は菓子パンやトーストだったのだ。そして小学校の昼休みにご飯を食べに一時帰宅をしていた。ご飯らしいご飯はお昼になってからだったのだ。まったくあれは本当にあったことなんだろうか? もう40年以上も前のことになる。
 そんな気ままな朝ご飯は真冬になると、七輪に炭をいからせて、お餅というのも多かった。その脇で酒粕を一枚か二枚焼くのである。小学生なのにこのアルコール分がかなり残っている芳醇な味わいが大好きだった。板状になった酒粕自体が甘いのは糖分が発酵時に残るためだし、これで白砂糖をくるんで食べたのだ。
 実を言うと四国と言っても貞光町(現つるぎ町)は朝方寒いのである。それなのに北国のように防寒服がしっかりあるわけでもなく、また古い江戸の商家そのままにボクの育った家は古く、耐えられないくらいに冷たい。それが板粕、2、3枚で身体がホカホカと温かい。また甘さに飢えていた頃なのである。甘いものが食べたくて仕方ないのが、酒粕のときだけしっかり白砂糖が用意されていた。
 そしてポカポカのまま我が家の裏木戸を抜け、坂道を上り、左手に十王さんが見える。そこにある石仏の石と石の間に江戸時代の銭が挟んであり、その下の苔が緑なのだ。登り切り、北へすすむ。暗い古めかしい長屋風の家々を抜けて学校へと向かう。ボクが左右に目を凝らすのは軒の氷柱を探しているのだ。子供の頃、大きな氷柱を持っているのが自慢の種だった。その長屋の平瓦の軒には氷柱がいつも並んでいるのだ。そのなかから大きいものを見つけると道の脇の草むらに隠して、また学校へと向かう。谷にかかる石の橋、大きな屋敷を過ぎて、少し道は広くなる。そして左手に曲がると幼稚園が見える。と、同時に養鶏場の鶏糞の強い臭い。幼稚園の前の山裾に広がるのが小学校の運動場、そして校舎がある。寝坊だったので、小学校には遅刻ギリギリで着いていた。運動場の端っこにくると、必ず始業のチャイムが鳴り始める。「チャイムの鳴っている間に教室に入ると遅刻とちがうんでよ」、同じく遅刻常習犯の友達と腹が痛くなるほどに走った。
 酒粕を焼くだけで子供の頃の情景が次々に浮かんでくる。どうしてなんだろう。

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酒粕は八王子市下恩方、中島酒造のもの


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このページは、管理人が2007年1月20日 22:36に書いたブログ記事です。

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